「座った瞬間、別のバスケが始まった」
伊丹スーパーフェニックス・伊藤壮平が20年追いかける、車いすバスケの「未来」とは。
最初は、よくある大学生の夏休みの出来事だった。
「将来どうしようか」と漠然と考えていた学生の伊藤壮平は、友人の縁で大阪・アミティ舞洲(障がい者スポーツセンター)へ短期アルバイトに行った。
そこで体育館を覗いた瞬間、目に飛び込んできたのは車いすでバスケをする人たちだった。
「面白そうやな」
中高でバスケットボールを経験していた伊藤は、職員に声をかけられ、競技用車いすに座ってみる。ところが、バスケットボールをしてきた伊藤でも思うように何もできない。
シュートが届かない。横に動けない。
当たり前だと思っていたランニングシュートも、相手を一人かわす感覚も、全部が別物になる。
伊藤はその感覚を「難しいというより、歯痒い」と表現した。
できるはずが、できない。そのギャップが、逆に火をつけたのかもしれない。そしてその火が20年以上も灯し続ける炎になるとは本人すら気が付いてはいなかった。

伊丹のいま、支え合いが、チームを強くする
伊藤が、いまの伊丹スーパーフェニックスでプレーする健常者選手であることは、10年前までは考えられなかった。始めた頃は「健常者が車いすバスケをやること自体、受け入れられていなかった雰囲気はあった」と。
挨拶しても目も合わない。
「立ってバスケできるやつが、何で入ってきとんねん」
そんな空気に晒されることもあった。
それでも伊藤はやめなかった。
ひとつは、受け入れてくれたチームがあったこと。もうひとつは、もっとシンプルで、スポーツらしい理由。
「文句を言ってるチームに、勝てるようになりたい」
車いすバスケの世界で、伊藤は練習相手として、そしてチームの一員として、自分の居場所をつくっていく。
気づけば、それが20年になっていた。
伊藤が語る、いまの伊丹の良さは明確であった。
かつては「キャプテンが一人で引っ張る」色が濃かった。けれど今は、キャプテンが誰であっても「支える側に回る」空気がある。
「みんなで協力しながら補い合おう」
車いすバスケは、接触も駆け引きも濃いスポーツである。
だからこそ、言葉が荒くなる文化も生まれやすい。伊藤はそれを前提に置きながら、伊丹には「相手の良いところを伸ばそう」という空気が、昔より出てきていると見ていた。
そして「伊丹らしさ」を一言で言うなら、伊藤はこう言いました。
「根っこは、みんなやんちゃ」
試合中だけでなく、試合の外で二人が目配せし「ちょっと、かましてやろうぜ」と仕込む。
そのいたずら心がうまくハマった時、体育館の温度が一段上がる。

競技の未来へ「オリンピック競技になったら究極」
車いすバスケの未来像を問うと、伊藤は迷わず話した。
「オリンピック競技になったら究極」
障がいの有無に関係なく、同じコートで、同じルールで、同じスポーツとして成立する。
車いすバスケは持ち点で条件が揃うという特性があり、国際ルールでは選手の持ち点(クラス)合計に上限を設けてバランスを取る。
だからこそ伊藤は「障がい者スポーツ」からさらに一歩進んだ先、「ひとつのスポーツ」としての到達点を夢見ていた。
伊丹の次の20年、
最後に、伊藤に「次の20年」を聞くと、答えは想像以上に大きな絵だった。
伊丹は今、人数が増え、レベル別に複数カテゴリで活動できる規模になっている。そこに法人化の力も加わり、役割分担が進めば。
初心者が入りやすい場所。
中堅が育つ場所。
トップが勝負できる場所。
そして、引退後も戻ってこられる場所。
冗談めかして伊藤は言う。
「ゆりかごから墓場」
さらに、車いすバスケだけに留まらず、伊丹スーパーフェニックスという冠の下に、他競技のパラスポーツが並んでもいい。バスケをきっかけに、テニスをやってみる。バドミントンをやってみる。競技を越えて、人がつながる。
それは「強いチーム」の話である前に「続いていく文化」。
それこそが、伊丹が目指す、Link Shapes the Next ーつながりが未来を創るー
伊藤は、すでに次の20年を見据えている。
伊藤壮平が最初に出会ったのは、きっと「車いすバスケ」という競技ではない。
座った瞬間に、知っているはずのバスケが通用しなくなる、あの歯痒さ。
その歯痒さに、20年かけて向き合い続けた人間が、いま「もっと開かれた未来」を語っている。
伊丹スーパーフェニックスの次の20年は、勝つだけでは終わらない。
誰かの「やってみたい」を拾い上げ、座った瞬間に始まる新しいバスケへ、また一人を連れてくる。
その連鎖の先に、伊藤が夢見る景色が待っています。
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